◎生徒の感想
・今回、この授業を受ける前は「汚染水」と「処理水」が同じものだと思っていたし、もう福島の放射線量は他県と同じかそれよりも低いことも何も知りませんでした。授業内でもあった通り、「何か分からないけど放射線って怖い。福島の向こうの地域はまだ危険だ」と思う立場の人でした。しかし、今回の授業を受けたことによって福島県民で震災を経験した立場のくせに何も知らな過ぎたと思い知らされました。私が3歳のことに起きたからこそ両親や祖父母が敏感になり、外出できなかったことも少し納得ができました。以前、祖母と処理水海洋放出について「何か怖い、いやだね」という会話をしました。今ではどこが安全で大丈夫かしっかり分かります。また祖母と話してみようと思いました。「無知ほど怖いものはない」心においてこれから生きていきたいです。 (1年女子)
・私は3歳のときに震災にあって、避難してきましたが、郡山の小中学校で放射線に関する差別を幸いにも受けたことはありません。ですが、子どものころから差別を受けて精神的にダメージを受けている人がいることを聞いて、とても悲しいし悔しいです。正しい知識がもっと広まってほしいと強く思ったし、自分もまだまだ知らないことがたくさんあるので、ちゃんと知ろうと思いました。私の祖父は○○に帰りたいそうですが、私の母は、私が学校に通っているし、郡山に住み慣れたから戻らないと言っていました。私も正直、記憶がしっかり残っているわけではないので、戻りたいとは思いません。でも、夜ノ森の桜は今も覚えているし、大好きです。桜祭りの日ににぎわっているのを見ると、とてもうれしいです。自分に何ができるか、具体的には分からないけど、話を聞いたり実際に見たりして、考えることから始めたいです。(1年女子)
・今回のお話しを聞いて、「安心」と「安全」の大きな違いを感じた。自分の中で「復興」という言葉はもう古いものなのではないかと授業前の時点で考えていた。しかし現在の福島の状況やいまだになくならない風評被害のお話しを聞き、復興がどれくらい進んでいるのか全然分からなくなってしまった。個人個人の立場で「復興」という言葉が違う意味を持つことなのかなということが知れた。授業では、放射線についてもいままで自分が知らなかったことも知ることができ、相双地区や原発に以前よりも興味が持てた。自分個人の心の中では復興は終わっていないと思う。復興というワードをいつまでも使い続けることがプラスになるかマイナスになるかは分からないが、復興に向けまずは自分から正しい情報を取捨選択していきたいと思った。 (2年男子)
・自分自身は避難を強いられた経験はないですが、最後に見た避難した生徒のリフレクションカードにあった「震災以上になるとは思えません」という言葉が印象に残りました。たしかに、震災によって避難した人がその地に戻ることは多くない気がします。改めて、復興とは難しいんだなあと思いました。 最初、私はこの授業に出るつもりはありませんでしたが、先生の熱意がすごそうだったのと、3月に受けた処理水の授業が面白かったので出ることにしました。正直、想像していた内容とは違いましたが、出てよかったと思います。特に、後半の福島の現状・課題・努力の話が印象的で、福島県民としてそのようなことを知れてよかったと思いました。原発事故による放射線の影響は少なくて安心したという事と、福島の復興は進んできたけど風評などの様々な問題があって大変だということです。これからもしかしたら何らかの形で復興に関わることがあるかもしれないので、そのときは頑張ります。本当に面白かったです。ありがとうございました。 (3年男子)
・安心を得るための食品検査が、不安を助長しているという話について、「危ないかも知れないから検査をしている」という検査のとらえ方もあると聞いて、驚いた。米の全袋検査が終わったのは大きな意味があると思った。 復興とは?再び安心して暮らせる状態にすること?震災以前より栄えた状態にすること?元の状態に戻すこと?今まで、復興とは何か言葉にして考えたことがなかった。聞かれてみると難しいと思った。友達とも話し合って、考えを深めたいと思った。 先生の授業を受けて、今までは科学的な知識を持たず新聞などの情報で不安に思うことが多かったが、正しい知識を持たず、漠然と不安に思う人も多いと思う。正しい知識を学ぶこと、そして伝えることの大切さを改めて実感した。NIMBY、Not In My BackYard (1年女子)
・私は当時5歳のときに大熊町から郡山市に逃げてきました。当時はよく分からない言葉が多く、ニュースをみても何を言っているのかさっぱりでしたが、当時ずっと聞こえてきたμSvや格納容器と言った言葉は今でも覚えています。そしてもう一つ忘れられないことがあります。それは放射能差別です。私自身は差別に会うことはありませんでしたが、正直めちゃくちゃ怖かったです。横浜市に避難した小学校の男の子が差別されたというニュースは今でも覚えているし、自殺者が出たという話も覚えています。学年が上がるにつれ事の重大さを自分なりに思い知りました。あの日ニュースを見て以降、私は出自を聞かれたときは必ず「郡山」と答えていました。△△とは絶対に応えませんでした。また、私の父が東電の関係企業に勤務している、ということも伝えませんでした。ですがこの時、自分といつも遊んでくれていた3人にだけ打ち明けました。そのときは「絶対このことは秘密にしてほしい」と言いました。いじめられるかも知れないと考えたからです。 ですが、こんな日々は中学2年生のときに変わりました。きっかけは福島駅伝の「大熊町チーム」としての出場です。当時私は陸上長距離の選手でしたが、大熊町の方から連絡が来て出場することになりました。私が出場する、という話はもちろん同級生、顧問にばれました。当時私はそれがたまらなく嫌でした。ですがクラスメイトは私のことをすごく応援してくれました。駅伝が終わって次の学校の日、私はクラスメイトから暖かい言葉をかけてもらいました。その瞬間、「自分は大熊町民だと名乗っていいんだな」と感じました。 そして去年、同級生から誘いがあり、浜通りの震災学習会に参加しました。ここまで浜通りをちゃんと回ったのは初めてのことでした。私はそこで初めて、「ふるさと大熊」に戻ってきたんだな、と感じました。 私は幸せ者です。放射線差別も東電差別も、私が危惧していたことは一切受けずにここまで来ました。当時5歳だったからこそ当時の記憶も両親のように何でもかんでも残っているわけではなく、断片的であったからこそ、原子力問題に積極的にかかわって行ったり、震災について気後れすることなく真正面から向き合っていけるのではないかと感じています。ですが、やはり幼かった私が暮らした大熊が、再開発のためとはいえ消えていってしまうことはものすごく寂しいし、悲しいことです。(現状もうすでに、私が大熊にいたことを示すものは大熊には残っていません) だからこそ、このような悲しい思いを未来の世代にはさせない、次の16万人を絶対に許さない、どんな差別も許容しない、そして、あの日のことを今のことを、当時の記憶を持つ「最後の世代」として、自分の言葉で発信していくこと。これが私の人生のやるべきことだと考えます。今日はものすごく考えさせられました。 (3年男子)
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